魂は存在するの?しないの?

魂

『“魂”って何なのだろう?』お墓を扱う仕事をしていて、供養に携わる立場からずっとそんなことを考えています。

でも現時点で、残念ながら“魂”を見たことがありません。

こんにちは、1級お墓ディレクターのりょういちです。

皆さん“魂”を見たことがありますか?それはどんな形で、どんな色をしていましたか?

“魂”を見たことがある、複数人の家族で同時に見た、なんて人の話を直接聴いたこともあります。

だけど、私は未だかつて見たことはありません。なので、これからお話をすることは“魂”を見たことがない人間が、自分なりの仮定で説明をすることになります。

世の中の多くの“魂”の話とは異なるかもしれませんが、自分なりに導き出した答えです。そして最終的には『魂はある』という結論に達しています。

目次

我思う、ゆえに我あり

『我思う、ゆえに我あり』とは、有名なフランスの哲学者デカルトの言葉です。

我思う、ゆえに我あり

全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である。

デカルト

ちと難しい話ですが、自分は自分が思っているからここに確かに存在しているよ~という話です。もしかしたら自分は映画のマトリックスの世界のように、人間栽培され機械に利用されているのかもしれません。それを確かめる術はありませんが、ココロがあって、自分の存在を認識できることは確実に証明できます。

私たちは、当たり前のようにこの世に生きていると考えていますが、それはちょっとあやふやな世界で、私というフィルターを通して見た世界に過ぎません。

 

その人を思うことは、その人が自分のココロの中に存在しているということ

同じ理屈になってきますが、友人・知人を思い浮かべる時に、その人は確実に自分の中に存在しています。あの人は今、こんなことをやっているのかな~どうしているのかな~と考えているときには、リアルに自分のココロの中で思い浮かべることができたりします。

存在する=生きている

これはココロの中での話になりますが、相手が存在しているということは、自分のココロの中では今まさにその相手が生きているということになります。

いうなれば『友人を思う、ゆえに友人あり』と言ったところでしょうか?この辺りは、私なりに考えた部分なので、飛躍していると感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、どんどんツッコミをいただければと思います(笑)

 

亡くなった方を思うとどうなるの?

それでは既にお亡くなりになられている方を思った場合にはどうなるのでしょうか?これも自分の中で存在していることにつながると考えます。

特定の故人を覚えていて思い出せるうちは、その方は自分の中でしっかりと生きているのです。日本には慣習としてお彼岸やお盆、そして法事などがありますが、これらは亡くなられた方々を定期的に思い出し、自分の中の故人を再確認する機会であると捉えています。

また故人への思いは、時間と共に変化していきます。例えば、自分の父親が亡くなったとして、生前厳しく育てられたので複雑な感情を抱いていたが、時間が経過すると共に許すことができて、感謝の気持ちが大きくなってきたとか。

その人への思いは、ココロは、時間と共に移りゆきます。私は、これを“魂”という風に捉えています。

“魂”は『生きとしゆけるもの』も『この世に存在しないもの』も全てを“私”が思った時に生まれます。思わないと何も生まれません。

そして、時間と共に大きくなったり形を変えたりします。

宇宙人は誰も見たことがないと思いますが、でも私たちはイメージできてしまったりします。(見たことがあるよ!という方はすいません)

映画リメンバー・ミーで感じたこと

私が大好きなディズニー&ピクサーの映画、リメンバー・ミーでは、【2度目の死】というのが象徴的に描かれています。2度目の死とは、この世で生きている誰からも思い出されなくなった時に、人間は2度目の死を迎えるということです。

自分の中で思い出せるうちは、(存在する=生きている)故人が、思い出せる人がいなくなると(存在しない=死ぬ)ということになります。

リメンバー・ミーの映画の中では、ある亡者が誰からも思い出されなくなり、体が消えていきました。とても悲しくて印象に残るシーンです。

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じゃあ?顔も知らない名前もわからないご先祖様ってどうなの?

でも日本の本当に素敵なところは、そんな顔も知らない名前もわからないご先祖様を思い出すのに素晴らしい仕組みをつくりあげているということです。

日本人は、ご先祖様をとても大切にしてきましたが、それを説明するのにわかりやすいのが氏神様です。氏神様とは、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことです。

10代遡ると1024人のご先祖様がいらっしゃって、ほぼその地域は親戚状態になり、みんなの共通のご先祖様ということになってきます。つまりご先祖様を氏神様として神格化することにより定期的に思い出すことを可能にしたのです。

この場合には、ご先祖様って概念が自分のココロの中にいないと、存在していないということになります。そして、現代日本において、このご先祖様は少しづつ忘れられてきています。

だけど、先祖供養から得られる恩恵は果てしなく大きい、今の時代だからこそ必要なものであると感じています。この辺りについては後で詳しくまとめます。

 

お墓参りの意味

皆さん知っていましたか?お墓には普段、ご先祖様の“魂”はないそうです。お浄土にいらっしゃるご先祖様の“魂”が、お墓参りをしてお祈りを捧げた時にだけお墓に戻ってきます。(お盆期間中は別です)

これって、自分の中にご先祖様を思い浮かべたから“魂”が戻ってきたという風には解釈できないでしょうか?

これは神棚でも神社でもお寺でもご先祖様をココロに抱きお祈りすれば“魂”がやってきますが、意味合い的にもお墓がもっとも先祖供養に相応しい象徴的な場所であると言えます。

私がいつも思うのは、この先祖供養の場所を失ってしまっていいのかなぁ?ということです。いやこれは自分がお墓を扱う職業云々を抜きにして素直にそう思うのです。

お墓の形態は、時代を経て変わっていますが、先祖供養は日本人の古来からの価値観です。日本人は、ずっとご先祖様を大切にしてきました。お墓じゃなくてもいい(議論を呼びそうですが)けど、先祖供養の価値観と祈りの場は語り継いでいきたいと思うのです。

そして、今のところお墓に代わる先祖供養に相応しい場所は見当たりません。

まとめ

以上、“魂”を見たことがない私が、自分なりに解釈してみました。たぶん、“魂”を自分の目で目の当たりにしない限りはこの論にそった感覚で捉え続けると思います。結論としては目には見えないけど“魂”は存在するという立場になります。

浅い解釈なのかもしれませんが、けっこうドライでフラットに物事を見たい性格なので、現実的なココロというものに置き換えて考えてみました。ココロはころころと変わるからココロと言うそうですが、見えないものに感謝をして生きることの意義、想像力を働かせ感じ取ることがとてもココロに良い影響を及ぼすことが心理学的にも証明されています。(GW中にまとめます)

そして、それこそがご先祖様が私たちに与えてくれる恩恵なのかなぁなんて感じています。今日は、自分の実家と嫁さんの実家のお墓参りに行きます。それでは皆様も楽しいGWをお過ごしくださいませ。(この終わり方なんや 笑)

1級お墓ディレクターのりょういちはこんな人ですよ。
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この記事を書いた人

石屋の“中の人”だったからこそ話せる、お墓の本当のこと。国産墓石の加工メーカーで経験を積み、輸入石材商社での仕事にも携わって約25年の元石屋です。1級お墓ディレクター・1級土木施工管理技士。紹介料を受け取らない、しがらみのない立場で、石の性質と施工の両方から、根拠まで示してやさしくお伝えしています。YouTube「おはかのなかのch」でも発信中。

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